「なぜこのニュースはどの局も報じないのか?」「SNSでは話題なのに、テレビも新聞も黙ったまま」──こうした疑問を抱いたことがある読者は少なくないだろう。情報があふれる現代において、むしろ私たちは“報じられない情報”にこそ敏感になりつつある。

この記事では、ニュースの報道姿勢に見られる構造的な偏りの背景を探るとともに、「報道されないニュース」がなぜ生まれるのかを多角的に分析していく。

■ 報道の“不在”が可視化される時代

かつての日本では、新聞・テレビ・雑誌など限られたメディアからの一方向的な情報供給が情報源の大半だった。だが今やSNSやYouTubeといった個人発信メディアの台頭により、既存メディアが報じないニュースが可視化される時代が到来している。

たとえば海外の政治家による日本批判発言がSNSで拡散される一方、国内メディアが一切取り上げない。あるいは地方での環境汚染問題が市民記者によって掘り起こされても、全国紙は沈黙する──こうした事例は枚挙にいとまがない。

■ 「報道しない自由」は存在するのか?

メディア関係者の間でしばしば語られる言葉に「報道しない自由」がある。これは皮肉めいた表現で、報道機関が“ニュース価値があるにもかかわらず、あえて報じない”という姿勢を意味する。問題は、この選別が編集方針や記者の判断にとどまらず、構造的な要因に基づいている点にある。

以下に、報道の偏りを生み出す主な構造的背景を挙げる:

■ 背景① 広告依存とスポンサーへの忖度

多くの大手メディアは、広告収入に大きく依存している。とりわけテレビ局は、番組の放映時間中に流すCMによって経営が成り立っており、そのスポンサー企業の意向を無視できない。仮にある企業の不祥事や社会的影響を扱うべき事件が発生したとしても、それが広告主である場合、「報道を控える」という“自主規制”が働くのだ。

新聞社であっても、企業との共同プロジェクトや協賛イベントなど、報道とは別のつながりがあるため、報道内容が萎縮するケースがある。

■ 背景② 政治との距離と記者クラブ制度

日本独特の制度として知られる「記者クラブ制度」も、情報の選別に影響を及ぼしている。官公庁や大企業など、情報発信の中枢に常駐できるのは登録された記者に限られ、その代わりに“関係性”が重視される。

この制度は、記者と取材先との距離を近づけ、裏話や速報を得やすくする反面、「政権批判」や「制度批判」など、センシティブな報道を避ける傾向も生む。記者が“出禁”になることを恐れ、結果として報道の中立性が揺らぐのだ。

■ 背景③ 国民の“空気”と同調圧力

意外に見落とされがちなのが、「国民世論」そのものの圧力である。日本社会には“和”を重んじる文化が根強く、報道機関も「空気を読む」ことを重視する。たとえば大きな災害が発生した直後には、政府の初動の遅れや構造的欠陥への批判を避け、被災者への共感に終始する。

また、SNS上で過剰に炎上することを避け、逆に“無難な報道”に終始するメディアも増えている。つまり、「報じない」ことが最善とされる空気が、社会全体に漂っているともいえる。

■ 報道されないことで失われるもの

報道されないニュースが増えるということは、社会の関心領域が歪められることを意味する。たとえば、外国人労働者の搾取や地方の医療崩壊、マイノリティへの制度的不利益などは、しばしば報道の網の目からこぼれ落ちる。これにより、国民は「何が問題なのか」を知る機会を失い、結果として民主主義そのものが機能不全に陥るリスクをはらんでいる。

また、情報格差の拡大も深刻だ。報道されない事実を知る人と知らない人の間で、政治的・経済的判断に大きな差が生まれ、社会分断が進行する。

■ どうすれば“隠されたニュース”にアクセスできるか

では、私たちはどのようにして「報道されない情報」にアクセスすればよいのか。いくつかの方法がある:

  1. 複数メディアを並行して読む(新聞、週刊誌、海外メディアなど)
  2. 一次情報に触れる(政府統計、裁判記録、議事録)
  3. 信頼できる個人発信者(専門家や現場記者)のSNSを活用する
  4. 海外メディアの日本語訳や英語記事に目を通す
  5. データジャーナリズムや市民メディアを積極的にフォローする

ただし、フェイクニュースとの境界も曖昧になっている時代だけに、情報リテラシーも問われる。単に「メディアは信じられない」と断じるのではなく、自ら主体的に情報を探す視点が必要だ。

■ “報じない自由”の時代に生きる私たち

今や、「何が報じられるか」だけでなく、「何が報じられないか」を読む力が、現代市民には不可欠となっている。メディアに完全な中立を求めることは現実的ではない。だが、報道の“偏り”を知り、情報の背後にある意図や構造を読み解く力を持つことで、私たちはより健全な民主主義に近づくことができる。

報道されないニュースには、報道されない理由がある。そしてその理由を問い続けることこそが、「報道機関を監視する」もう一つの市民の役割なのではないだろうか。