子どものころ、食卓の前で手を合わせて「いただきます」と言うのが当たり前だった。家族そろっての食事のはじまりに、自然とその言葉が口をついて出た人も多いだろう。しかし近年、この「いただきます」を言わない家庭や子どもたちが増えているという声が、教育現場や保育の現場から上がっている。背景には、家庭環境の変化や価値観の多様化があると考えられる。

「いただきます」は単なる挨拶ではない。それは、食事を用意してくれた人への感謝、命をいただくという意識、そして食事という日常の営みを大切にする日本独自の文化的所作である。だからこそ、その消失は単なる言葉の変化にとどまらず、私たちの感性や価値観、さらには社会全体の在り方にまで影響を及ぼしかねない。

「言わない自由」と「言う意味」

最近の教育現場では、「いただきます」や「ごちそうさま」を言わせることに対して、“強制はよくない”という意見も出ている。確かに、宗教的意味合いや価値観の違いを考慮すれば、すべての家庭が同じように感じているわけではないのも事実だ。しかし、「いただきます」は必ずしも宗教的な言葉ではなく、どちらかといえば社会的、文化的な礼儀作法に近い。

言葉は行動や思考を形づくる。たとえば、毎回「ありがとう」と口にすることで、自然と感謝の気持ちが芽生えるように、「いただきます」もまた、食べ物や関わった人々への敬意を育てるきっかけになる。言わない自由が尊重される一方で、その言葉が持つ意味や背景が失われることは、単に「個人の自由」の問題ではなく、文化の連鎖が断たれる危機でもある。

変わる家庭の風景

「いただきます」を言わない子どもが増えた背景には、家庭での食卓のあり方の変化もある。共働き家庭の増加、個食(家族がバラバラに食事をとる)、中食(惣菜や弁当の利用)などにより、そもそも家族で揃って食事をする機会が減ってきている。

また、スマートフォンやテレビを見ながらの「ながら食べ」が当たり前になると、食事の始まりに一呼吸を置いて「いただきます」を言うという所作自体が薄れていく。食事が「命をいただく神聖な行為」ではなく、単なる栄養補給やルーティンとして扱われるようになると、自然とその言葉も忘れられていく。

感謝の文化が失われるとき

「いただきます」を言わなくなることは、食事という行為に対する感謝の気持ちだけでなく、他者への思いやりやつながりの意識の希薄化にもつながる。例えば、料理を作ってくれた人、農家や漁師、物流を支える人たちなど、食卓の背後にある無数の働きに思いを馳せる機会がなくなってしまう。

感謝は目に見えないものに価値を与える文化である。それが失われると、目に見えるコストや効率だけが優先される世界になりかねない。食事だけでなく、人間関係や社会の仕組みにも影響を及ぼすこの「感謝の喪失」は、現代社会が抱える静かな危機とも言えるだろう。

教育現場の試みと課題

一部の小学校や保育園では、「いただきます」の意味を改めて子どもたちに伝える取り組みが始まっている。農家の方を招いて収穫体験をしたり、給食調理員との交流の場を設けたりすることで、「食べる」ことの背景にある人々の働きや自然の恵みに気づいてもらうのが狙いだ。

こうした教育は、単なるマナー教育ではなく、感性を育てる情操教育の一環としても評価されつつある。しかし、家庭との連携が欠かせない中で、学校だけで完結することの難しさも指摘されている。家庭で「いただきます」が定着していなければ、学校での指導も一過性のものになりかねないからだ。

「いただきます」を再び日常に

「いただきます」は、たった一言のあいさつにすぎないかもしれない。しかし、その一言の中に、日本人の自然観、命への畏敬、他者への感謝といった、深い精神性が宿っている。グローバル化の時代にあって、こうした文化的所作は軽視されがちだが、それはむしろ私たちが世界に誇るべき価値の一つでもある。

今、私たちがすべきことは、「いただきます」という言葉を子どもたちに“教える”のではなく、その意味を“伝える”ことだろう。それは、形だけの作法ではなく、心の姿勢としての感謝を伝える営みである。

毎日の食事の中で、たった一言「いただきます」と言う。その小さな行為が、社会全体の優しさとつながりを育てる第一歩になるのかもしれない。