「宿題ゼロ」の小学校が増えている
「この学校、宿題がないんです」
保護者の間でそんな話題が広がりつつある。東京都内の一部の小学校や、長野県、福岡県などではすでに「宿題を廃止」または「自主性に任せる」という方針を打ち出す公立校も増えてきた。背景にあるのは、子どもたちの過重負担と、家庭学習が“やらされ感”で機能していないという問題意識だ。
たとえば、ある公立小学校では宿題を完全に廃止し、「放課後は思い切り遊び、家では読書や対話に時間を使うように」と保護者に伝えている。その結果、保護者からは「親子の時間が増えた」「子どもが自分から本を読むようになった」といった声も上がっている。
一方で、保護者の中には「学力が下がるのではないか」と不安を覚える声も根強い。確かに宿題は長らく、学習内容の定着を図るための重要な手段とされてきた。しかし今、その役割自体が問い直されつつある。
宿題は“やらされる学習”か?
宿題の目的は、授業で学んだ内容の復習、反復練習、学習習慣の定着である。だが実際の現場では、「親がやらせて提出させる」「意味もわからず漢字ドリルを繰り返す」といった形骸化した実態がある。特に低学年では、家庭の支援の有無が宿題の完成度に直結するため、「家庭環境格差」を助長しているという指摘もある。
文部科学省は「家庭学習の習慣づけ」を推奨しており、全国学力・学習状況調査でも「宿題に取り組む子どもほど学力が高い」という傾向は出ている。しかしこれは宿題自体の効果というより、学びに向かう姿勢や家庭のサポート体制が影響している可能性が高い。
つまり、宿題が学力を高めているのではなく、「学ぶ子」が宿題もやる、という相関に過ぎないのではないか──。そんな疑問を持つ教育関係者も増えてきた。
フィンランドの例に学ぶべきか
宿題を巡る議論では、しばしばフィンランドの教育が引き合いに出される。PISA調査(OECDによる学習到達度調査)で上位にランクインし続けるフィンランドでは、小学生の宿題は非常に少なく、1日10〜20分程度が一般的とされている。午後には学校が終わり、家庭や地域でのびのびと過ごす時間が重視されている。
その代わり、授業中の学びの密度が高く、グループでの討論や問題解決型学習が多用されている。「自ら問いを立て、考える力」を重視した教育方針が、少ない宿題でも高い学力を支えているという。
一方の日本では、詰め込み型の授業に加えて宿題が課され、学習時間は世界でもトップクラス。だがその割に、「自ら考える力」「議論する力」には課題があるとされており、文科省も近年は「アクティブラーニング」や「探究学習」へのシフトを打ち出している。
“量より質”への転換は可能か
宿題廃止の背景には、「やらせる学習」から「考える学習」への転換が必要という教育現場の声がある。たとえば、漢字ドリルを10回書かせるよりも、「この漢字を使った面白い作文を1つ書く」ほうが、記憶にも残り、自分の言葉で考える力が育つという。
中には、「一律の宿題」ではなく、「個別最適な課題」を出す試みもある。子どもの理解度や関心に応じて、読む本を選ばせたり、テーマを決めて調べ学習をさせたりする。ICTの導入により、家庭での学習状況を教師が把握しやすくなったことも、こうした柔軟な対応を可能にしている。
もちろん、すべての教師が個別対応できるわけではない。教員の業務負担が限界を迎える中で、「宿題ゼロ」には賛否が分かれる。だが、単に「なくすか・残すか」ではなく、「どうすれば意味ある学びにできるか」という観点が、これからの教育には求められている。
親の不安と向き合うために
「宿題がないと心配」「何もしていないようで不安」という保護者の声は理解できる。しかし一方で、「自分で考える力」を本当に育てたいのであれば、“与えられた課題”をこなすだけでは限界がある。
むしろ、家庭での会話や日常生活の中にこそ、考える力を育てるチャンスがある。買い物で値段を比べる、ニュースを見て意見を話し合う、レシピを見ながら料理を一緒にする──。すべてが「生きた学び」となり得る。
教育の現場でも、「家庭との連携」が改めて重視されている。学校だけに任せるのではなく、家庭が“学びの場”になるという発想が、宿題を見直す動きと連動して広がっている。
“自分の頭で考える子”を育てるには
AIが進化し、正解を検索すれば見つかる時代において、必要とされるのは「問いを立てる力」や「他人と議論する力」だ。つまり、既存の知識を暗記するのではなく、自分なりの視点や論理で物事を考える力が求められている。
その観点からすれば、宿題の有無よりも、「どんな学び方をしているか」が重要になる。子ども自身が「なぜこれを学ぶのか」「どんなふうに学べば楽しいのか」を感じられるような教育こそが、本当の意味で“考える力”を育てる。
宿題はあくまで手段の一つに過ぎない。今こそ、教育の目的そのものに立ち返り、「子どもにどんな未来を用意するか」という視点で、私たち大人も“問い直す力”が求められているのではないだろうか。