かつて日本の集落には必ず「鎮守の森」があった。村の神社を囲むように広がる樹林は、ただの景観ではない。そこには神々が宿ると信じられ、人々の精神的な拠り所となってきた。しかし今、この鎮守の森が静かに、確実に姿を消している。なぜ私たちは、守るべき「聖なる森」を手放してしまったのだろうか。
鎮守の森とは何か?
「鎮守の森」とは、神社を囲む森林や樹林のことを指す。古くは神を祀る場所として自然のままの山や森を神域とし、そこに社殿が築かれ、森が「神の領域」として保たれてきた。森には人の手があまり入らず、独自の生態系が維持されてきた。
このような鎮守の森は、日本の里山文化の象徴でもあり、地域住民の暮らしと密接に結びついていた。森から薪や落ち葉を得、神事の場として大切にされてきたそれらの空間は、自然と人間の共生のかたちを体現していたのである。
なぜ消えていくのか──三つの主要な要因
1. 地方の人口減少と神社の維持困難
少子高齢化と都市部への人口集中により、地方の集落は急速に縮小している。住民がいなくなれば、神社の維持管理も困難になる。かつては地域の氏子たちによって担われていた草刈りや樹木の手入れも、担い手がいなければ放置され、やがて伐採されてしまう。
また、無住となった神社は「廃社」扱いとなり、敷地が売却されたり、宅地や太陽光発電設備などに転用されたりすることもある。こうして、森ごと姿を消していく。
2. 防災・景観・開発という名の「合理化」
都市近郊では、鎮守の森が開発圧力にさらされている。森が「暗くて危険」「害虫が出る」「火災の危険がある」といった理由で伐採される例も少なくない。また、行政が推進する都市計画において、道路拡幅や公園整備のために森が削られるケースもある。
例えば関東地方のある自治体では、小学校の拡張工事にあたり、隣接する神社の鎮守の森が「安全のため」伐採された。その決定には賛否両論あったが、最終的に「公共の利益」が優先された。
3. 宗教観の変化と「森の意味」の喪失
戦後の高度経済成長期以降、日本人の宗教観は大きく変わった。神社や仏閣が「信仰の場」ではなく「観光地」や「伝統文化施設」として捉えられるようになり、日常的に森を敬う意識が希薄になった。
かつては「神が宿る」とされた森も、今や「使い道のない土地」「管理の手間がかかる場所」とみなされることがある。人々の精神的なつながりが薄れれば、森が「守るべきもの」として意識されなくなるのも当然かもしれない。
鎮守の森が持つ多面的な価値
消えゆく鎮守の森だが、その価値は今も変わらず、いや、むしろ現代社会においてこそ見直されるべきだ。以下にその主要な価値を整理する。
1. 生物多様性の保全
鎮守の森は、都市や農村の中に残された貴重な自然生態系である。鳥類や昆虫、希少植物など多様な生き物が棲息し、ミニ生態系を形成している。とくに都市部ではコンクリート化が進み、生物のすみかが失われている中で、こうした森の存在は極めて重要だ。
2. 気候変動への緩衝材
木々がもたらす日陰や気温の緩和効果、CO₂吸収、水源涵養といった機能は、都市のヒートアイランド現象対策や自然災害への備えとしても有効だ。特に近年、異常気象や集中豪雨が頻発する中、緑の保全は「贅沢品」ではなく「インフラ」としての役割を持つ。
3. 精神文化・地域アイデンティティの象徴
鎮守の森は、単なる自然環境ではない。それは人々の記憶や共同体の歴史と深く結びついている。祭りや初詣といった行事の舞台であり、地域の心の支柱でもある。森が失われれば、その精神的なつながりもまた断たれてしまう。
まちづくりに鎮守の森を組み込むという選択
では、現代のまちづくりにおいて、鎮守の森をどう位置づければよいのか。単に保護区として囲い込むのではなく、地域の空間設計に積極的に取り込むことが求められている。
たとえば、神社とその周囲の森を「グリーンインフラ」として、地域の防災拠点や癒しの場、環境教育の場として活用する事例も増えている。これは「神域」としての森の神聖さを損なうことなく、現代的な意味を与え直す試みでもある。
また、一部の地方自治体では、神社と協力して鎮守の森の管理にボランティアを巻き込み、草刈りや環境学習などを通じて地域の子どもや若者に「森との関係性」を体験させる取り組みも行われている。
最後に──森を失えば、私たちもまた失われる
鎮守の森は、日本人の精神の根を支えてきた存在だ。そこには自然を畏れ敬う感性があり、人と人とのつながりを育む力があった。
今、私たちが問うべきなのは、「どう守るか」ではなく、「なぜ守るのか」である。森をただの緑地ではなく、「生きた文化」として再評価しなければ、気づいたときには取り返しがつかなくなっているかもしれない。
神社と森、そして地域。三者のつながりを未来へと受け継いでいくこと。それが、私たちがいま選ぶべきまちづくりの在り方なのではないだろうか。