「都民ファースト」と「日本人ファースト」は何が違うのか?

「ファースト」の意味を問い直す

「都民ファーストの会」といえば、小池百合子東京都知事が掲げたスローガンであり、地域政党としてのブランドでもある。「都民のために都政を動かす」という旗印は、当初多くの共感を集め、都議会に旋風を巻き起こした。

だが、同じ「ファースト」を掲げながら、「日本人ファースト」という言葉にはなぜか否定的な視線が向けられる傾向がある。使われる場面によっては、差別的・排外的とまでレッテルを貼られることさえある。

なぜ「都民ファースト」は許容され、「日本人ファースト」は叩かれるのか。この“不思議”の背景には、日本社会特有の「内向きの正義感」や「国民国家の輪郭不在」が横たわっているように見える。

「都民ファースト」が受け入れられた理由

「都民ファーストの会」が誕生したのは2017年。既存政党に対する不信感と、東京五輪を控えた都政への期待が重なり、小池知事は“改革者”として脚光を浴びた。

このスローガンが歓迎された背景には、以下のような要因がある。

  • ターゲットが明確:「都民」という地理的・制度的枠組みの中で完結するため、排他的印象を持たれにくい。
  • 制度の正当性:都民の税金で運営される都政に対して「都民を最優先に考える」という発想は、論理的に正当化されやすい。
  • 対立軸の不在:「都民ファースト」に反対する層は明確に存在せず、マスコミも比較的好意的に扱った。

つまり、「都民ファースト」は“敵を作らない”構造にあり、政治的リスクが低かったと言える。

「日本人ファースト」が叩かれる背景

一方、「日本人ファースト」という言葉が登場すると、状況は一変する。「日本人」という括りが、「外国人との比較」「差別の可能性」「移民排斥の意図」など、多くのセンシティブな文脈を引き寄せてしまうのだ。

その背景には以下のような事情がある。

  • 戦後教育の影響:日本では“国家”や“国民”という概念に慎重であるべきという戦後的な価値観が強く根づいている。
  • 多文化共生の建前:表向きには“ダイバーシティ”や“共生社会”が重視されるため、民族的・国籍的な優先順位を語ることがタブーになりやすい。
  • メディアの反応:特定の文脈で「日本人ファースト」を掲げると、保守・排外・右翼といったラベルが貼られやすく、論理的な議論が難しくなる。

「日本人ファースト」は、あくまで“自国民の生活を守る”という基本的な主張にすぎないはずだが、現代日本においてそれは“勇気が必要な主張”になってしまっている。

海外との比較:アメリカの「America First」はどう受け止められたか

「〇〇ファースト」というスローガンの代名詞といえば、ドナルド・トランプ元米大統領の「America First」である。これは米国内では保守層を中心に支持され、他国への干渉を控え、自国民の雇用と安全を守るという意味合いで使われた。

このフレーズは国際社会からは反発を招いたものの、アメリカ国内では“当たり前”の主張として広く受け入れられた。

対照的に、日本では「Japan First」と掲げるとすぐに「極右」とされる。これは、国家主権を自明視しない空気感や、“自国優先”が道徳的に劣っているという幻想が影響している。

「内なる検閲」としての“自己否定”

日本人は、「誰かを傷つけるかもしれない」ことを極度に避ける傾向がある。これは相手への配慮というよりも、自己検閲の文化と言っていい。

「日本人ファースト」と口にする前に、「それって差別では?」「外国人を排除する意図があるのでは?」といった批判が想定され、言論が萎縮する。この自己規制が“空気の支配”を強め、健全な政策議論すら封じてしまうことがある。

この構図は、次のように図式化できる:

「都民ファースト」=制度的・限定的な自己主張 → 許容される
「日本人ファースト」=国家的・民族的な自己主張 → 危険視される

“日本人ファースト”の本来の意味を回復するために

少子高齢化、実質賃金の低迷、治安の変化、社会保障の逼迫──こうした課題に向き合うためには、日本に住む人々、特に納税している日本国民の暮らしをどう守るかという視点は欠かせない。

これは排外主義でも民族主義でもなく、社会設計の基本である。

外国人への福祉給付や不正受給の問題に言及すると、すぐに「差別だ」と非難されるが、他国でも自国民優先は常識である。日本だけが“逆差別”を正義としているように見える現状は、いびつな平等意識の裏返しでしかない。

ファーストの本質とは

“ファースト”とは、決して“オンリー”ではない。誰かを排除するための言葉ではなく、何を優先するかを明確にするための言葉である。

「都民ファースト」も「日本人ファースト」も、本来は政治の責任の所在を明らかにする宣言であるべきだ。

「〇〇ファースト」がただのスローガンに終わるか、それとも社会を動かす原則となるか──その分岐点に、私たちは今立っているのかもしれない。