かつてディストピア小説に描かれたような「監視社会」は、遠い未来の話ではなかった。今日の私たちは、知らず知らずのうちに、常に“誰かに見られている”環境の中で生活している。防犯カメラ、スマートフォン、SNS、そして人工知能(AI)による顔認識や行動解析。これらが高度に組み合わさることで、個人の行動や意識すら把握できる時代が到来しているのだ。

「便利」と「安心」の裏にひそむ“静かな監視”。本記事では、防犯と利便性の名のもとに進行する「監視社会」の実態と、日本における制度や意識の変化を、国内外の事例とともに見ていく。

街に溶け込む監視の目:防犯カメラの普及と社会意識

日本国内に設置されている防犯カメラの数は、警察庁の発表によると2023年時点で少なくとも680万台以上。自治体や商業施設、交通機関に加え、個人宅でもカメラ設置が進み、「無数の目」が街に張り巡らされている。

かつては犯罪抑止の手段として歓迎されたが、今や映像が顔認識や人物追跡と結びつき、プライバシーの観点から慎重な運用が求められる時代になっている。

興味深いのは、私たちの多くがこの状況を「受け入れている」ことだ。犯罪抑止や行方不明者の早期発見など、目に見えるメリットがある一方で、「見られていることへの慣れ」が無意識の順応を促している。

スマホという“追跡端末”:位置情報と個人の自由

防犯カメラ以上に私たちの行動を詳細に記録しているのがスマートフォンだ。現代人の生活のほぼすべてがスマホを介して記録・送信され、位置情報、検索履歴、購買行動、健康状態までもがアプリやOSを通じて企業に収集されている。

GoogleやApple、LINEなどの大手企業は「ユーザーの利便性向上」を掲げてこれらの情報を活用するが、その情報は第三者に共有されたり、アルゴリズムによって行動予測に利用されたりしている。実際、広告やニュースの表示が個人に最適化され、「見たいものだけを見せる」情報環境が生まれている。

さらに、コロナ禍で導入された接触確認アプリ「COCOA」のように、政府や公的機関がスマホの位置情報を活用する動きも加速した。「公共の安全」と「個人の自由」は常に綱引き状態にある。

顔認識AIの進化と“無意識の監視”

技術の進展は、監視の質をも変化させている。中でも注目されるのが「顔認識AI」だ。防犯カメラと連動し、街中にいる特定の人物を瞬時に特定・追跡するシステムが、中国やアメリカではすでに実用化されている。

日本でも一部の鉄道会社や空港、イベント会場で導入が進みつつあり、万引き犯や指名手配犯の検知に使われるケースが報告されている。

こうした技術は防犯上は有効でも、「無実の一般市民」が知らぬ間に分析されている可能性も否定できない。「何も悪いことをしていなければ気にしなくていい」という言葉の裏にある、“潜在的容疑者”という視線は、私たちの社会の在り方そのものを問い直すきっかけになる。

“行動の採点化”とスコア社会の兆し

さらに近年注目されるのが、中国で試験運用されている「社会信用スコア」のような、個人の行動や信用度を数値化し、生活に影響を及ぼす仕組みである。

例えば、「交通違反を繰り返すと飛行機に乗れなくなる」「SNSで政府批判をするとローン審査が通らない」など、すでに現実となっている事例もある。

日本では現時点でそのような制度は存在しないが、クレジットカードのスコアリングや、民間の信用情報の活用が進んでおり、デジタル社会の進行に伴って“見えない評価システム”が日常に入り込んできているのも事実だ。

就職活動や不動産の賃貸契約、保険料の査定など、「過去の行動履歴」が新たな評価軸になりつつある。

法制度の“追いつかなさ”と透明性の欠如

こうした監視社会化の進行に対し、制度面は必ずしも十分に対応できていない。

日本では「個人情報保護法」が一定の歯止めとなっているが、AIやIoT、顔認識など新技術への包括的な規制は整っていない。また、映像データの収集・保管・使用目的などが不透明なまま、企業や自治体による活用が進むケースもある。

欧州連合(EU)は一般データ保護規則(GDPR)により、強力なプライバシー保護を義務づけているが、日本の法制度は未だ“後追い”の印象が強い。監視の技術が進化する一方で、それを使う側の透明性や説明責任が欠けていることが、最大の懸念といえる。

安心と自由のバランスをどう取るか

もちろん、監視技術のすべてが否定されるべきものではない。凶悪犯罪の抑止や災害時の安否確認、迷子の捜索、高齢者の見守りなど、「人を守るための監視」は社会にとって不可欠だ。

しかし問題は、それらがいつ「人を制御するための監視」に変わるか分からないという点にある。技術の進歩が人権の意識に追いつかなければ、私たちはいつの間にか“見張られる自由”しか持たない社会に移行してしまう可能性がある。

市民一人ひとりが「便利さ」と「危うさ」の両面を認識し、技術に対して主体的に問いを持つことが、今後の社会設計には欠かせない。

“見る側”ではなく“見られる側”として考える

私たちはいつから「見られること」を当然と考えるようになったのだろうか。SNSに自分の顔や行動を投稿する日常、店内に入れば常時録画され、スマホはどこで何を検索したかを記憶している。あらゆる行動がデータとして蓄積され、分析される。

このような社会において必要なのは、見られる側の視点で考える力である。誰が、なぜ、どのように、私たちの情報を扱っているのか。その問いを持たぬままでは、「安心」がいつしか「支配」にすり替わってしまう。

監視社会はすでに始まっている。そして、それをどう受け止め、どう向き合うかを決めるのは、今を生きる私たち一人ひとりなのだ。